するすると。紙魚に喰われた巻物をひも解く
土倉の芥を掴む手が震える
あなたはなんて。
ぽたりと一滴。呟きと一緒にこぼれた、ああなんてことを貴方は、貴方は長い時を。









『酉政伍年某月某日。
此処のところ日記を書きそびれてしまった。忌まわしき日であった。また西方から賊が紛れ込んだのである。森向こうの村は先の夏虫害にあい不作に見舞われているらしい。しかしこの萎びた村とて持ちうる田畑は僅かで、分け与えるにはほとほと足りぬ。若い男衆を引き連れ彼奴等を光も碌に差さぬ森の中腹まで押し戻した。私は不安であった。飛び交う怒号、鳥が騒ぎ出す。これ以上森の地を荒立てれば山神もお怒りになりかねぬ。危惧を余所に西の彼奴等は攻めの手を緩めようとしない。奇怪な声を挙げ一斉に山鳥が木々から飛び立った。足元を飛蝗や芋虫が這い逃げてゆく。突然の疾風、と、悪寒。
…其れからは一瞬の事であった。次々地に伏す男衆。失せた生気、息ある者も悲痛に呻く。無事だった者も事態に追い付けず狂乱に呑まれ一目散に駈け出した。私は膝をついたままだ、動こうにも足が使い物に成らぬ。悉く薙いだように伏す人輪の中央に異様なモノが立っていた。わたしは血の匂に噎せ返る。魔物が、幻魔がこちらを見た。不気味に光る頭毛を濡らし、その白い手には我が甥の首。人のものでは到底ありえぬ、人外の眼で笑い甥の頭蓋に歯を立てた。「影成様!此の隙に、あれが喰らうことに気をやっているうちに!!」生き残った若衆に担がれその場から逃れる。幻魔が地の底から響くような異様な音で吠える。山神から此の地を譲り受け申した、命惜しくば近寄らぬ事よ。「おのれ幻魔!貴様のしたこと忘れぬぞ、我が命、我が一族に賭けて」けたたましく森に響いた轟音は幻魔の嘲笑か。』





「・・・・・幻魔・・・」
崩れた文字故不鮮明、だが明らかに。
ハヤテは何度もその記述に目を走らせた。古く弱った紙が軋んだ。
祖父が先に亡くなり、里長となった父からハヤテは月光家代々の蔵の出入りが許された。
読み書きが出来る人間はこの里に僅かであるが、ハヤテはその少数派に属す。
元々落ち着いた生活を好むため書は彼の良き友であり、純粋な好奇心も手伝い土蔵に収められている古文書に目を通せる日を心待ちにしていたのだった。
土蔵の扉は重く、年の割に細いハヤテの腕で開けるのはやっとだ。埃っぽさに空咳を繰り返したが、めげずに長置の中の虫に食われた巻物を読み耽った。
そんなことを数日繰り返し、蔵の中でも一番奥まった場所にある長置の底に手を伸ばす。

蔵の外から声がする。夕顔だ。私を探しているらしい。しかしハヤテは返事をすることはおろか書から目を離すことも出来なかった。胸の臓が早鐘のように鳴り続ける。
影成、その名は確か曾祖父の更に祖父、当たり前だが今この村で実際に会ったものは皆無、代々の墓に名が刻まれていることをちらりと意識したのみの先祖のもの。
この手記によれば。彼が出会った化け物、影成はそれを幻魔と、称した。

(でもそんな)

これが。こんなに忌まわしいモノが本当に。

(彼、なのか)

あまりにも違う。訪れるたび、欠伸をしながら迎えてくれる彼と。しかし。ハヤテは逡巡する。私はヒトならざる彼の一面も見ているはずだと。
いつか、自分がまだ幼い時。遊びに行ったら彼は棲家のあばら屋の前にある、やはり朽ちはて濁った小さな、しかし底の知れぬ沼を覗き込むでもなく立っていた。
生臭い香りがして(今思えばあれは死臭だ)歩み寄り尋ねれば、赤く染まった腕を怪我じゃないさ、とはぐらかしながらゲンマはゆったり、笑っていた。
まだある。二度目に会いに行ったとき、彼は確かにその口から「影成」の名を出しはしなかったか。


(…間違いない)


コレは、この化け物は。
だのに自分ときたら。


「またここにいたのね。喉を傷めるわ、こんな埃っぽいところにいては」


美しい声が土蔵に響いた。薄暗い蔵中に明かりが指して、夕顔が斜陽を背負って立っていた。表情は陰になっていて、見えない。
彼女は日に透かされて舞う白い塵の粒子を叩くしぐさをした。
呆然とするハヤテをいぶかしんで「顔色がわるいわ。ツナデ様に見て頂きましょう」、腕をひかれる。
幼いころからちっとも変わらない。夕顔の背丈をハヤテがこした、それだけが。大人しく付いていく、ハヤテは空咳を繰り返す。


(わたしときたら、)


あの人が真に化物だったと突きつけられても、その過去の凶行を知っても。


(あなたはどれだけの間どんなに気の遠くなる時間を越えて来たのですか。人を喰らいながら、あのあばら家で、たったひとりで。)


なんて愚かな見当違いだろう、ほとんど異常的。私は狂い始めたのだろうか。ふと口元だけでわらう。
見とがめた夕顔が尋ねる前に、「君が相も変わらず心配性であるから…」泣きたいなと思いながらうそぶいた。
胸の奥がまだ、しくしくと。


 

*

 

 

「お。久し振り?か?」


ゲンマはハヤテと幾度か会ううち、時間の流れをハヤテの成長具合で判断することにしたらしい。
そろそろ手足の成長も終わる兆しなのだがそしたら今度はどうやって時間を測るのだろう。

「お医者様に捕まってしまって。たいしたことはないのにね、抜け出すのに苦労したのです」
「ははあ。真逆里長の子は待遇がちがうな。しかしお前、もすこし食った方がいいぜ。もやしに里は守れめえよ」

里を守る。ハヤテは言葉に詰まってしまった。こんな時に先祖の手記など思い出す。

「・・・」
「どうした」
「ゲンマさん、あなた」

言った途端に男の眉が顰められた。

「糞!うるせえ野郎共だ」

激昂して立ち上がり「お前は中にいろ。ったく時をわきまえろってんだ」わけも判らず固まってしまったハヤテの耳はやっと草をかき分ける足音をとらえた。

「素通りすればみのがしてやったのに」
「これは…?村の者ですか」
「西のほうのな。きゃつら俺が此処に居ると都合が悪いんでね。全く懲りねえ」

お前さんはほら早く、そこまで言いつのってゲンマはすこし考えるような顔をした。

「…やっぱり村へお戻り。裏の戸口から出られる。あっちは草が深いから気づかれもしないだろう。振り向くなよ」



「こわいだろう?」


ゲンマがわらった。
その虹彩に煌々と光が。
ゲンマの髪に血を被って滴るような、錯覚。

「行け!」

はっとして一目散に藪の中へと駆け出した。ゲンマの声が賊にとっても呼び水となったらしい、人の掛け声と抜刀の音が一斉に響いたのをハヤテは足がもつれる思いで聞く。村まではかなりの距離が
ある。頬を背の高さほどもある葦草で傷つけた。ハヤテの肺が空気を求めて悲鳴を上げたが失速することも立ち止まることもしなかった。
確実に人の声が減っていく。断末魔が森に木霊した。



(・・・こわい)


ゲンマはあの瞳で私の恐怖を読み取ったのだろうか。よもやその目は全部を見透かしたのだろうか、

(人ではないやはり人ではないあのひとは)

初めてあの男を恐ろしいと思った。
獣の咆哮が遠くできこえた。
あの男のものだろうか。
あれに一瞬でも怖気てしまった私は、おそらくそれを知られてしまった私は。

(次、どんなつらして会えば良い)

途方に暮れながら開けてきた藪をなお駆ける。
集落の田が見えてきた。

 


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