共に生きられないことは知っていた。夏がきて秋がきて、残された月日を数えることが、いつからか。

しづか



「今日は山へゆかないのね。」

そう静かに夕顔が言ったので、ハヤテはゆっくり、読んでいた本から顔をあげた。
彼女の射止めるような目と目が合って苦笑する。ごまかすように。
「そんなにいつも行っていないさ」

2人はハヤテの私室にいた。さきほど、村唯一の医者であるツナデ大婆に定期健診してもらった。大婆と入れ違いに遊びに来たのがツナデであった。
ツナデはハヤテと夕顔を一通りからかい、この村で最年長とは思えない艶のある貌で笑った。
朗らかな老医を玄関からおくると、いつもどおり部屋ですこし話す。
「知ってるわ。おじ上さまの目を盗んで山に入っているの。」
「・・・・・」
やっぱり。ハヤテはそう思った。家族や他の村の者が気づかなくとも、彼女に隠し事は難しい。
沈黙は肯定だ。なぜ、と夕顔は問うた。
「あれほど言われたでしょう、森にはいってはいけないと」
「でも昔は2人ではいったじゃないか」
「それは子供の頃の話です。あの頃はなんにもわかってなかったわ」
「確かにおてんばだったね、おまえは」
「はぐらかさないでハヤテ。森は危ない。またこの前、鬼が西の村の者を襲ったそうよ」

どきりとした。
夕顔はハヤテの、その動揺を見とがめる。そういえばあの日も、と呟いた。

「・・・」
「・・・ハヤテ」

まさかあなた、鬼に会ったの。

ハヤテは答えられない。いや、答えようと思えばいくらでも答えられるのだ。偽りを並べればいい。それで夕顔は安心する。
それなのに。

「ずっと会ってたの。森に入るのは…鬼がいるから?」

はたと思い至った。夕顔に分かってほしいのだ。こくりとハヤテはうなずく。

「・・・お前が思うような人じゃ ないんだ」
「ヒト、ですって?あれは鬼よ!ヒトを屠ってよろこぶ鬼。近づいてはいけない」

あの時の咆哮を、いつもどこか彼がまとう血の匂いをハヤテは震える。

「でも・・・!それだけじゃない、ゲンマさんはやさしい。なのにあの森でずっとひとりぼっちだ」
「森は境界。山神様の土地にヒトざるものが棲むのは当たり前よ。どうしちゃったのハヤテ」

夕顔が今にも零れそうな水滴を瞳にため、それでも毅然と見詰めてくる。
瞬間なぜだか、彼の例の爛爛と燃えていた瞳が目蓋にまたたいた。

「生きる場所も時間もちがう、あの鬼と共になんて、いきられないのよ」


*


「・・・当てが外れたな」
「…。御邪魔しても?」

縁側に転がっていたゲンマは、そのままの姿勢でゆっくりとハヤテを眺めたあと、顎をしゃくって棲みかとするあばら屋の内を示した。
手に持った真新しい煙管の灰をポンと落として立ちあがるゲンマにハヤテは従う。
火の消えた煙管を手慰みにしながら、もうこねえもんだと。そうゲンマはつぶやいた。
びくりとハヤテの肩がふるえる。

(やはりこの人はしっている)

自分がゲンマを恐れ始めていることに。


「あの池に、」

つ、とゲンマの右手が、やおら庭にある沼を指差した。
それは小さくまるい、水は澄んでいるのに底の知れない、藪に隠れるように存在する池だ、しかし不思議と虫が湧かない。

「いろんなやつが沈んでいる。この前の西のやつらも、その前の人間どもも。浮かびもしないでただ、そこに沈むだけよ。
ただ俺はてめえが、あすこからうまれたんじゃねえかと思ってる。」

ふ。とゲンマはそこでわらって、「ただの思い込みだが。」と付けくわえた。

「俺が池から生まれたその頃、どんな姿をしてたかも覚えちゃいない。
ただ、いつ自然と消えるかもしれない、他の怪どもに食われちまうかもしれない。不安だったよ。不安しかなかった。
で、ある時ー…山神の力を盗んだ」

しづかに雨が降ってきた。あばら屋の屋根にたたたたた、と雨粒が叩きつけられ軒が震えた。空気がぬるく湿っていく。

「山神様の・・・?」

ゲンマの住むこの森はそもそも、山神様の鎮守の森の一角だ。山間で、ほそぼそ生きるハヤテの村では、山神は身近な祀り神である。

「山神様はいらっしゃるのですか。本当に?私はまだ見たことが無いのです。それに、神の力を盗むなんて、そんなことが」
できるのですか、とハヤテは続けたかったが、そらさむくなって途中で問いがきれる。ゲンマは知ってか知らずかその意味を汲み答えた。

「できるのさ。ほんとの名を知り得体を知れば。」

俺は運が良かっただけだが、と続ける。

「必死だった。何とか強い力を持たなきゃ消えちまうからな。たまたま神の名を知って、それを使ってこの一帯と、神の力をちょっとばかり分けてもらった」

あの婆はまるでどこ吹く風だったがな。

そう自嘲するようにゲンマは言って、いかにも語り終えたように口を閉ざした。
沈黙が流れる。雨音ばかりがあばら屋の中にこだまする。ときどき、鼠の走る音、木々が揺れきしむ音。


「・・・あなたは」

雨音と混ざりあうような声で密やかにハヤテは言った。

「あなたはやはり 鬼なのですね」

ぽつりと、それは雨音のような声色だった。ゲンマの耳に届いたろうか。僅かほほ笑んだ気がした。
この人は、寂しげな笑い方ばかりする。

「あなたに仲間はいないのですか」

諭すようにゲンマは答えた。

「鬼にいるのは敵か、それか食い物だけだよ」

「ではわたしは」

「おまえは人間だなあ」

「でもお前といるのは」、ふと考えるように言葉を切り、

「・・・当てが外れてよかった。」

そう、ゲンマはつぶやいた。

それがあまりに唐突に、真摯な声音になるものだから


「・・・あなたが鬼でも、私が人でも」

何かがふつりと、切れた気がした。

「関係ないのです」


「あなたにとって人間など、…わたしなど。ただの時間つぶしでしかないことも分かっています。でもそれこそわたしには関係ないんだ」

「ハヤテ?」
怪訝そうにゲンマがこちらをうかがっている。
御免なさいと、ハヤテは心の中で謝った。


「あなたの長い生にとって、またたくように一瞬でも。わたしにとってゲンマさんと過ごせる時間が何より大切になってしまっているのです。
あなたをさびしくさせたくない、と思ってしまいます。何を諦めてしまっているのですか。あなたが恐ろしい。あなたのことをもっと知りたい。
私はあなたのことを、」




不意に伸ばされる、腕。
その手のひらを唇に感じた。



「・・・だめだ、」


彼は。

まるで死の宣告を受けたような、背後からばさりと斬り付けられたような
そのくせそれを事前に悟っていたような、
また季節から置いていかれるのを目の当たりにしたような、

あるいは、縋る、ような。


色々なものがない交ぜになったそんな眼で、恐れを(いや、それとも怯えだろうか)抱いた微かに揺れる手で、
それでも目をそらさずに
言ってくれるな、
そう、呟かれたのならば。


「・・・はい。」


阻まれて籠もった声で、それでも。
頷くほかに術などなかった。
拒否されてなお、食い下がることなど。


ゆっくりとゲンマの手が離れていく。
深刻にさせてしまってはいけない、
私は出来る限り自然に笑みをつくる。
すると彼は、まるで痛み続ける傷を思い出したように。
つらそうに、顔を歪めた。

泣き出しそうな表情だ、と思った。
涙が出てくるのは こちらの方だというのに。

みじめでみじめで、思わず嘲笑しようとしたとき
音も無く。
静かに、先程はこの口を戒めた大きな手が伸びてきて、背に回される。
すぐにそれは両手になって 私をかき抱いた。

「ゲンマさん」、呼んでみる。返事は、無い。
彼の顔を窺おうにも。私の肩に額を押し付けていて、金色の髪が夕日を浴びて輝くばかりだ。
回された腕に力が入る。躯がきしんでしまいそうな程。

繋ぎとめるようだ、まるで。
それしか知らないように、それしかできないように 強く。
私は誤解してしまいそうで、ひどく苦しくて、

ずるい人だ、

そう、心の中であなたをなじる。おそろしい鬼であるくせに、非道を尽くせる悪鬼のくせに。ずるくて臆病で、優しい人だ、あなたは。

好きでしょうがない。切なくて、悲しくて仕方ない。
それでも 側にいたいと思うのです。
人ざるあなたにとって瞬く間に終わってしまうであろう私をあなたが疎んだとしても
それでも…あなたといたいと心は叫ぶのです。


はい

想いを告げなければあなたが傷付かないというなら、私がいても赦されるなら
一生、口にはしませんから。
昨日までと寸分違わず私は振る舞ってみせますから。

だから、と言葉を紡がずに懇願して、目を伏せる。



そういえば、この人が私を抱きしめてくれたのは ひどく幼いとき以来だと気付いたら
もう、我慢できなくなって、やっと保っていた視界が、滲む。

いくつもいくつも、雫は彼の着物の裄に吸いこまれていった。







 ・ 進