季節は足早に。



 

 

‥−たちどま−‥

 

 




外がまだ明るい内に目が覚めた。
何か夢を見ていた気がする、けれど忘れた。所詮惰眠が見せる夢だ。
くあぁ。
あくびをして、背伸び。
どのくらい寝ていたかな、と外を見ると一面の雪がすっかり溶けていた。
育ちすぎた蕗の薹の葉が風にゆれる。
問う者などいないが、もし春と冬でどちらが好きかと聞かれたならば春だと答えるだろう。
(眠るには、良い季節なんだがなァ)
なにせ冬は退屈なのだ。美しいが、興を紛らわすものの多くが厚い雪の下だから。

足を踏み出すたび、ぎし、と木張りの床はきしみ鳴る。
飢えること無い腹がそれでも軽い気がして朽ちたあばら屋を出るとすぐに、気配。

人か。

珍しい、とわずかまばたく。
正確に言うならば、この森の東からやってくる人間が珍しいといったところだ。
西からなら頻繁に彼らは分け入ってくる。
東から入った最後の人間は、たしか、ああ、あの餓鬼だったな。
それもついこの間である。俺にとっては、だが。
綽然とそんなことを考えながらその気配のする方へ向かう。
取り逃がしたところでたいして痛手ではないから動作はゆったりとしたものだ。
人間の足音が、輕い。女か子供だろうが、あの餓鬼ほどには小さくなかろうとなんとなく思った。ら、不意に。

「出てきてください」

掛けられた声に少し驚く。
こちらは足音も気配もけしていなかったから気付かれるのは、当たり前と言えば当たり前。
以外なのはその時点で逃げなかったことだ。

興をさかされ木々の間から姿を現すと、やはり人の子はまだ幼かった。
(真っ直ぐな瞳だな)
見覚えはあったが、はて、いつだったか。
子供はやっと会えた、といって深く頭を下げた。

「いつかは。里まで送ってくださってありがとうございました」
「里?俺がか」
「もう大分前のことですから覚えてらっしゃらないとは思いますが。きちんとお礼を言いたくて」
「・・・まさかお前この前の餓鬼か!大きくなったなあ」
「もう五年も経ってます」
「五年ね。人の暦はどうも性に合わなくていけねえ」

子供はまた何か言おうと口を開いたが、遮り言葉を続けた。

「寄ってけよ。今日は良い日だ。」


そよ風に森の木々がなびく―――春。



 

 


「しかし、まあ。お前も全く妙な餓鬼だな。まさか本当に喰われたいわけでもあるめぇよ」

あばら屋に餓鬼を上げ、適当な場所に胡座をかいて男はにいと笑った。

「では、やっぱり・・・『金色の鬼』は、あなたなのですか」
「いかにも。っても、鬼だの魑魅だの夜叉だの、人間共が好き勝手呼んでるだけだがな」

恐えか、俺が。
たずねると、ちんまり正座していた餓鬼は僅かだけわなないたが、ふるり、と首を横に振った。
その幼い動作を黙って見詰める。

「あなたは、恩人です。あの時助けてくれました。それに目が覚めるほどきれいです。ののさまかとまで、思いました。」

この髪と眼と、それを表してお天道様の次はのの様か。
普通の者はこの異様な姿を見ただけで逃げ出すというのに。

「きれいだと言うが、それはお前みたいな変わり者を誘き寄せ喰らうためのものかもしれないだろう。何を勘違いしているか知らないが、お前たちにとって俺はばけものに相違ねえ」
「でも助けてくれました、そんな風には思えません」
ありがとうございました、吃驚するほどの頑固さでそこまで一息に餓鬼は言う。

「ーなんてんだ」
「え、」
「お前の、名だよ。なんていうんだ」
「はやて。月光ハヤテです」
「月光?」

思わず語調を強めて低く言うと、空気がおびえたように揺れる。

「は。また懐かしい姓だなあ。てえことはお前、里長の家の子じゃねえか。どうだ、まだ影成のやつは息災か」

ぱちりと餓鬼はまばたいて首を傾げる。
その様子を見て、俺は何ともいえないかおを、したろう。
そうか、と。
やっぱ人の暦は合わなくていけねえよ。とだけ呟いて自分の手を首にやる。
その時おずおず餓鬼は声を掛けた。

「あの、あなたの名前はなんですか」
「・・・俺?んなもん、ねえなァ。鬼とか狐とか、好きに呼べば。」

とたんに、きゅうと眉を寄せ俯かれてしまった。
なんでお前がそんなかおするかね。俺今そんな非道いこといったか。
さてどうしたもんかと考えをめぐらし、ふと、ぼんやりした記憶が網にひっかかる。

「ゲンマ」

餓鬼はかおを上げ俺を見た。

「ゲンマってのはどうだ。たしかお前のご先祖様がそう呼んでた。意味は禄でもねえんだろうけどな、」
音が良い、そう言うと餓鬼…ハヤテは。
ぱぁとほころぶように笑ったので。
なんか、あったけえなあ。うれしくなって俺も、笑った。



日が傾いてきた。
今日はひとりで帰れるだろうな、と茶化したら、かえれますよ!と返ってきた。

「気ィ付けて帰れよ」
「はい。・・・また来ていいですか」
「勝手にしろよ。俺が寝てたら起こせ」

里へと向かうハヤテは少し進んで、一度こちらを振り返ってちいさな手を振った。
苦笑して俺も片手を上げる。
林の中に消えたことを見届け、それでも俺は、そよぐ風に身をまかせていた。


 

 

 

 

・・・そのすこし後。
ハヤテの身長が俺の頭一つ下まで伸びた頃。
なぜわたしを喰べなかったんですか?と、訊かれた。


ああそれはな。

空腹なんて無い、腹は減ってはいなかったが満ちてもいない、
あの時も見つけた子供が五月蠅く喚いたり気に障ったりしたら喰べてやろうとおもっていた。
ハヤテ、お前はあの時なんて行ったか覚えているか。
お天道さまのようだと言ったんだ、この俺に。
何も知らない無邪気な、警戒心を置いてきてしまったような餓鬼に、ああたしか、俺は笑いかけてやったっけ。
滑稽だ。
そう、お前の手を引いている間ずっと思っていた。
運が悪かったら俺に喰われていたかもしれないのに大人しくついてくるお前も、
あやしながら手を取って、仏心を出している俺も。

天道様と言われて、気分は悪くなかったんだ、そうだとも。
けれど、俺は。
俺の身の丈の半分もないようなちいさい餓鬼の、俺にとって一瞬ほども生きていないだろう餓鬼の
言ったときの瞳にがつりと、きた。
俺はお前の眼にちいさな、けれどたしかに光を見たんだ。
お前に光を見たから、こんな髪の比じゃない、澄んだ光を見たから、
喰う気なんて失せたんだよ。


なんて。
そんなことを平気で言うほど俺は恥知らずではなかったし、
身の程知らずでもなかったのだ、けれども。



 


季節は。足早に俺の隣を通り過ぎていく
けれどお前はたちどまった。


 


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