森には鬼が 出ると云う。

 

 

 

‥−が引き寄せる影−‥

 

 

 

風が舞い上がる。

すっかり秋を湛えた木の葉はどんどん地面を覆い隠し、この人間の手が入らない山は鮮やかに色付いていく。
ざりり。ざりり。草履の下で枯葉が擦れ、その音がひどく大きく聞こえて、ハヤテはまた足を止めた。

とても、つかれた。

ひとりになってから何度もそのまま蹲ってしまいたい衝動に駆られたが、ハヤテは幼くとも、
一度そうしてしまえば動けなくなってしまうことを知っていたのでもう半日も歩き通しだ。
空を見上げる。とうとう陽も沈んでしまった。まだ明るいが、すぐ暗くなる。
太陽がいなくなったから、冷たい風も吹いてきた。
着物の裾がはためく。
ハヤテは思わず身震いする。

「ゆうがお…」

涙が出てきた。つたなく繰り返す、夕顔、どこ、夕顔。

 

夕顔とはハヤテより一つ年上のイトコのことだ。
ハヤテはそれこそうまく言葉がしゃべれない頃から夕顔に懐きついて回り、夕顔もハヤテのことをなにかと構い、振り回している。
今回も、鎮守の森に入ってみよう、と言い出したのは夕顔だった。
迫りたつような山々に囲まれている彼らの里の、西のはずれ。
そこには山神様を奉る祠があって、神聖な場所とされている。
けれど、それだけではない。
里人は、もう何代も何代も前から自分の子供たちにこう言い含める。


『あすこには鬼が棲んでいる』
『人を喰う獣が』
『恐ろしい魑魅が』
『化け物』


年に数回の山神を奉る儀式の時以外は大人たちでさえ立ち入ろうとしない。
得体の知れない恐怖を植え付けられているハヤテもまた、夕顔の提案を聞いたときは驚きを隠せなかった。


『森に…?でも、母上は化け物が出るっていってました』
『化け物だか鬼だかわからないけれど。お天道さまが昇っているうちはきっとまぶしくて出てこれないわ』

『ね、行こう?きっとあすこの紅葉はとってもキレイよ!』

そう半ば夕顔に押し切られる形で、二人は森に足を踏み入れたのだった。

 


『ハヤテ。早く!』

そう急かす夕顔の顔は好奇心に輝いていた。

『まってっ』

その時、ハヤテは地面からつきだした木の根に躓き転んでしまう。

『あっ。』

気付かない夕顔は、どんどん先に進み木の葉に隠れて見えなくなった。
慌てて後を追いかけてもその影を捉えることはできず、今に至る。


 

(夕顔は、里に帰れたでしょうか)

薄明るく霞む森には夜の気配が忍び寄る。

烏の鳴き声が空に響いて、遠いどこからか獣の咆哮が届いて、ハヤテはまたぐすりとなる。
しかし余裕はなくとも
夕顔は今どうしているだろう、と考える。
無事に森から抜け出せているといい。
今 目の前に現れてくれたら、と思いはするけれど
大好きな彼女にこんな思いをしてほしくないとも思う。
化け物に鉢合わせしたりしていないだろうか、
まさか、喰われてしまったりして、は。
不安が押し寄せてきて、涙が溢れた。


どのくらいそうしていたろう。
突然、木立の一角が音を立て始めた。
ハヤテの背が泡立つ。硬直してしまう。


時はたそがれ、逢魔が 時。


(ばけもの…!?)
木々のざわめきはどんどんおおきく近づき。

ガサガサ、ガサガサ、ザリッ。

 

 


「…里の子、か?」



明るい。
まばたきも忘れて、ハヤテは目を見開いた。

「早く帰れ、じき夜が来る」

それとも、鬼に喰われたいか。


男はひやりとする声で恐ろしいことを言った。
けれどハヤテは魅入るばかりでそれどころではない。
木陰から現れた男に。その輝く金色の光に。
それはまるで、


「お天道さま」

「お天道さまの色!」

恐れも忘れてハヤテは言う。すると男は目を見張って、すぐに吹き出した。

「この髪のことか?変わった餓鬼だな…」


すっと長い腕を伸ばして、くしゃりとハヤテの頭を撫でてくれた。
笑いで金色が揺れる。

「まぁ、早く帰れ。ここいらは本当に獣が出る」

その言葉にはっとして、またじわりと涙が出てくる。
帰れないのだ、私は。この森から抜け出せない…

「夕顔と、はぐれてしまった、の、です」
「迷子か」
途切れ途切れの、けれど必死の言葉を聞いた男はしゃがんでハヤテと目線を合わせる。
泣くな泣くな、とあやされる。


「なら、里の入り口まで送ってやろう。きっと皆心配してるぞ」

ハヤテを安心させるように少し笑って見せた。
キラリと、その拍子にまた男の髪がまたたく。

手を取られて歩き出しながら
ハヤテははやり、暗さを増す森に中にまた陽が昇ってくれたのだと思わずにはいられなかった。









 


‥ ‥ ‥


 




「ハヤテ!」

 



森を抜け里の灯りが見えると、ほどなく待ち望んでいた声。

「夕顔っ」

夕顔も無事だ。よかった。
一安心して、ハヤテはここまで連れてきてくれた恩人を振り返った。
何度でも言いたい、ありがとう。

けれど振り向いた先にはただ闇があるばかりで、ハヤテはしばし呆然とする。

さっきまで。確かに後ろに付いていてくれたのに。
立ち退く足音も何も なかったのに?

ざあっと一陣の風が吹きぬけて、ハヤテの思考をますます乱す。

「ごめん、ごめんねハヤテ…よかった…!!」

夕顔に勢いよく抱きつかれてよろける。
彼女はぎゅっとハヤテを離さない。
里人たちが篝火を手に集まってくる。皆一様にほっとしたような表情。
ハヤテの不審な様子には気付かないようだ。

 


すいすいと木々の間を泳ぐように突き進み、自分を導き、
音もなく消えてしまった、彼は

陽の化身のような光をたたえたあの人は、一体…

 


夕顔の、安堵と一緒に発した言葉が、ハヤテの耳にいつまでも残る。

「金色の鬼に、たべられちゃったのかと思った」


 


鎮守の森に立ち入るべからず
金色の鬼が出ると云うー…。

 

 

 

  


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