「てのなるほうへ」の赤井さとり様より頂きました!


 

朝顔



19450730

 無闇に暑いある日のことだ。
 私は流れる汗にたえかねて、けれど空も青かった。外をどうしてもみたくなった。
 当時借りていた家には大雑把な垣でかこわれた狭い庭がついていて、さまざまな植物が勝手放題に茂っていた。私が手入れをしないのと、薮蚊がでるほかは少しくらい荒れていたほうが都合がよかったからだった。
 カンカン帽をかむって縁側に腰掛け、下駄が汗で滑ったのでたらいを置いて足を突っ込んだ。温いなあ。と言うと自動的にひとりごとだ。
 暑いなあ。と続けようとすると、い、のあたりでひっかかって咳になった。
 まともに話もできない体調で何がカンカン帽だい。と思って帽子を投げる。びゅ、と風を切って意外なほどはやくちからづよく帽子は飛んで、朝顔を這わせた竹垣の向こうに消えた。
 ああそういえば学生時代は野球をやっていたな。と思い出す。
 そうしてそのおもいでがあんまりにとおい。
 続けざまに咳をした。実際は、笑おうとしたのだ。
 帽子の飛んでいった方角から、いてえ、とか何とか、うめくような声がした。
 あッすみません。と言うとまた、咳だ。
 たらいの水がばしゃばしゃとゆれた。やはりどうにも、温かった。


 知らない人だねえ。と思っていたら向こうが先に言った、
「知らねえ面だなあ」
 国民服をかっちり着て国民帽をかぶっている。なんだかひどく暑そうだ。
「何。なんか病気か何かなの?
 こんな時勢に若い男がこんな田舎でさあ。帽子なんか投げてさあ。
 今時分国民学校のガキだって勤労してンじゃねえのかねえ。いいのか」
 ……そちらはどうなんです。とは、きかなかった。
 国民服の彼は右足を引き摺っている。竹垣の隙から這入ってきたときにすぐわかるくらいには不自由で、戦地に赴ける格好ではなかった。あるいは従軍でもした際に負傷したのだろうと思われた。
「はあ。すみません」
 張り合いなさそうに、彼は私の帽子をくるくると弄んで、「うつる病かい」訊きながら手渡してきた。
「はい。胸がわるくて」咳込みながらこたえる。
「そうか。死ぬ?」
 だんだん苛々してきた。悪気はたぶん、あるのだ。
「わかりません。じっと寝ていれば生き延びるかもしれない」
「その間無駄飯食うわけだ。で、帽子投げたりしてね」
「はあ。すみません」生きてて。
 いやはや暑いなあ。暇だし。と言いながら国防色の帽子を脱ぐと、
 ……なんだか薄い色の長い髪がばさりと広がった。
「胸の病かあ。で、こんなところで隠居してるってこたァ実家金持ち? 食い物ある?」
「西瓜どうです。温くていいなら」
 どうして彼の暴言や図々しさを許せたのかわからない。
 きちがいじみていると、思った。
 異様なあかるさだと、思った。
 でも髪の色がとてもきれいだった。
 陽光にすけてほんとうにきれいだった。
「ご自分で切り分けてここまで持ってきてください」
「うん。いいのか」
「いいです。どうせ死ぬから」
 何だよ気にしたのかよゥ。と彼は言い、「すまなかったな?」つけたした。
「いえ。ほんとうに」
 だから知らないひとに西瓜をあげるのも別にかまいません。ただ縁側の端に座ってください。うつるから。
 たぶん結構平然と言えたと思う。彼はあからさまに傷ついたから。
 笑うともう咳は出なかった。肺腑がごうごうと鳴った。
 空はやはり青くて、暴力的にあかるくて、憎かった。
 ああそうだ私は目の前の男を、瞬間的に、憎んだのかもしれなかった。
 理由なんてない。
 裁判でも起こって強いてなにか挙げるなら、
「太陽を背負っていたように見えたので」とでも言うだろう。


   西瓜は割合に甘かった。男は執拗に、私の身辺のことを聞きだそうとした。自分のことは名前すらもかたらない。のに。
 おかげで身の上話をさせられた。病のことだけ考えていた頭は数ヶ月ぶりに成り上がりの祖父や国粋主義の父のことやいまだに武家の女気取りの母のこと、私ひとり疎開してきたときたれひとりついてこなかった使用人のことを思い出した。実につまらなかった。
 はじめから生まれてない人間のように、私の人生はつまらなくて何もなくて、つねに外界から圧迫を受けていた。
「……すみません。おもしろくない話」
 どうして謝るのだろう。という顔で男は西瓜の種を庭先に吐き出した。機関銃のように勢いをつけて吐くさまが子供のようで、ああこのひとも生き辛かろう。とふいに思った。
「ちょっと。種」
「知らねえのか。こうしとくと生えるんだ。おれが住んでるところにも南瓜が勝手になっててよ。うまいぞ」
「へえ」
 この食糧難に何を暢気な。わずかな土地をもつかって栽培しているに決まっている。きっと薄鈍なのだ。でなければ病的な嘘吐き。
「何が何でもカボチャをつくれ、て、知ってます? 東京の標語ですが」
「知ってるけどこの辺は田舎だからなあ。実際、放っといて生ったんだぜ。それに普通に南瓜がすきだなあ。いいだろ、あの種の感じが。中空洞で無駄な感じが」
 男は帰るまで南瓜以外の自分に関する情報を漏らさなかったので、心の中で「南瓜」と呼ぶことにした。
 南瓜は帰り際になってやっと「邪魔したな」と言った。
「あなた国民服は似合いませんよ」
「……なにそれ捨て台詞? おれァこれ着てねえとダメなんだよ」
「それは半端な死に装束です。似合いませんよ」
 すこし、怒らせたようだった。南瓜はすこしもふりかえらなかった。
 ひとりでたらいを片付けているとひゅっとすずしい風が吹いた。
 夕立が来るなあ、とつぶやくと、血のにおいがする咳がこみあげた。


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19450801

「あ。いかん生で持ってきた。煮炊きするひといる?」
「大丈夫です。3食頼んである近所の奥さんに煮てもらいます」
 ごろごろごろ。と風呂敷から南瓜を3個転がすと南瓜はかしかし頭を掻いた。麻の着流しがすずしげだったので私はすこしく満足した。言い訳がましく「国民服洗っちまったからよ」くちをとがらせるのも、たのしい。
 私は縁側の見えるしかしうすぐらい部屋にいる。南瓜は飽きもせず太陽を背負っている。ほんものの南瓜は縁側からころがってきて畳の上ではたととまった。
「南瓜って今なるンだぜ知ってた?」
「はあ」
「反応うすいな!」
「どうしていらしたんですか」
 南瓜はすこしことばに詰まってから「こないだの礼」とこたえた。
「西瓜の」
「うん」
 南瓜は縁側に腰を下ろし、「冷たい茶とかないの?」からだをひねってこちらを向いた。
「あなた今、礼、って……」
「いやでも、歩いてきて喉かわいたから。みればわかるだろう脚悪ィんだよそれでも頑張ってんのおれは。頑張ったの。おまえも誠意を見せろ」
「……はあ」
 薬缶に入れっぱなしの湯冷ましをそれでも南瓜はうまそうに飲んだ。
「じゃあ、帰んわ」
「何しにいらしたんですか」
「何って、南瓜もってきたろうよ。あと暇つぶし」
「もっと潰していったらどうですか」
 ひどく意外そうな顔を、南瓜はして、それからなんだか所在なさそうに浮かせかけた腰をおとした。
「昼間っからぶらぶらしてるんだからそちらもよほど暇でしょう」
「……つってもねえ。ここらにももう使える男なんかいねえじゃねえ。だから割合重宝されてんのよ。高いところの物とったり重いモンもったり」
 言いながら南瓜は自分で頭を抱えた。「なにこの感じ! 痛々しい! おれ!」
「竹槍持ってるご婦人方に使われて。はは。いじましい」
「そっちは何の役にも立たないだろうよ」
「上等」
 無為に生きるのもいいですよたのしいですよ。と言った。
 自分がほんとうにそんなことを思っているのかどうかは知らない。
「たのしいんならおれもやろうかなあ。ちょうど何だか死にてえんだ。死にそこねのまま生きるのが嫌でな。その病気うつしてくれよ」
「いいけどその後どうするんです。遊んで暮らすだけのお金と死ぬかもしれない覚悟とありますか」
「ある」
 無駄に真顔だ。
「出世したから金がないこたねえし、糞度胸があるから上まで行ったんだ」
「はあ。それはどういう、……ひとをたくさん、」
「殺した殺した。いやも、ひどかったねえ。しまいにァなんかおれとか直接最前線まで行かなくてもよくなったのにさあ。糧食班にくっついてって一番前で檄とばすふりして殺してきたりさあ。すごいよなあ気持ちいいのな。もうアレよ。女、連れてったり、するだろ? そのへんで捕まえたりした子を。それにはもう興味ないの。それより血なの。参るよ」
 はじめ冗談なのだろうと思って、すぐに思い直した。南瓜は私と目を合わせないようにかすこしとおくをみている。その顔がうすあおい。
「……まあいいやいろいろあっていまそういう意味でご婦人方の役に立てねえの。少しばかり荷物持ったりするくれえなの。意味わかるよな。あれ、ところで胸のアレって下のほうは大丈夫なの」
「下ですか」
「カリエスなんかだといかにもダメんなりそうだよな。胸は、どうなの。朝とかどうなってる? 役に立ちそう?」
「は? そういう意味で、て、いま話変わりましたよね」
「そうかな」
 そうだよ! と言い返すと南瓜はおかしそうに笑った。
「いまの嘘な。悪ィ。おまえみたいなフワッフワした奴みると何かひどいこと言ってやりたくなるよな」
「……はあ。そうですか。で、どこからですか」
 何が? と、南瓜は訊いた。手の甲で額の汗をぬぐいながら。
「いやだから、どこから嘘ですか」
 すこしばかり嫌な顔をして、こたえてくれなかった。
 だから手の触れるほど近くまで寄っていって、「半可な話してたらいけませんようつしますよ」ふっと息を、吹きかけた。
「そこは嘘じゃねえよ」
 てめえが病原菌みたいな言い方するなよなあ。と怒ったように早口で続けて、「死ぬのは怖くねえ」眉を寄せた。
「また話かわってますよ」
 南瓜の額はひやりとしていた。私が発熱しているのかもしれなかった。
 ああ私はこれからはじめてひとをころすのだなあ、と、思った。


 帰り際に南瓜の名前を訊いた。
 南瓜は顔をしかめて私の名前を訊きかえし、言うと「変な名前」笑って自分ではやはり何とも名乗らなかった。
「何でおれの名ァなんて訊くンだよ。意味あんのか」
 意味はなかった。記号としての意味すらない。呼ぶ用が、ないから。
「はじめて殺すひとの名前くらい知っててもいいでしょう
 おかしな意味づけだと自分でも笑った。
 私の名をうたうように発音して、南瓜は、「またな」と手を振った。


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19450807

 またなと言ったとおりに南瓜はたびたびやってきた。
 そうしてわざわざ私の近くに寄ってはべたべた触り、「熱があるなあ」とか「咳もでるなあ」とか愚にもつかない感想ばかり言うのだ。私はそのたび身を硬くする。南瓜は私の反応を、たのしんでいるようでもある。
「それァどうやってうつるんだ」
「空気感染か飛沫感染です。だから咳してるときちかくにいると」
「いいよ」
 何がいいのか知れないが、私は南瓜のそうした台詞をきくたびすこしだけ気分が楽になり、また、少しだけつらくもなった。
 南瓜は死にたがっている。死にたがっている南瓜には死神が必要だろう。南瓜は私を死神のように思っているだろう。だから寄ってくるのだろう。ふつうの神経か、それが。まさか。
 病の私にはたれも近寄らない。三度の食事を運んでくれる方には実家からたいそうな金と物資を支払っているときく。それも怖かろう。そんなことを口にしたのは私の弱さだ。きちがい相手にまともな話をする私は最低だと思う。
「どこにもひとりふたり、病気もちくらいいただろうよ。今は時勢が時勢だからみんな死んじまうだけだ」
 おまえは悪くないよと南瓜は言った。ひどくやさしい浮世離れした調子だったので逆にこたえた。悪くないわけがないじゃないか。私ひとり働けないのだ。私ひとり穀潰しなのだ。悪くないわけが。
 何かのどにつかえたようになって、ごほ、と咳をすると、胸にあたらしい泉でもわいたようにいくらでも続いた。しまいにはぐったりと畳に横たわった私を南瓜は長いこと観察して、ふいに顔をよせてきた。
「口を吸えばうつるかね」
 あは。自分勝手な男だ。泣き喚きたいとふいに思った。
「うつりますけど私は嫌ですよ」
「だっておれ、女はだめなんだ。こどもとかできるんだってなあれは。気持ち悪くない?」
「話が変わっています」
 南瓜は笑おうとした。そうしてまたすぐに話題を変える。
「おれは耐えられねえんだよ。外地でそこそこ才があるっていわれて、まあそら戦の才だからたいしていいモンじゃねえんだけどよ、それがこうして怪我で帰ってきてみたら一瞬で役立たずじゃねえか。年寄りには嫌味言われるし女にも馬鹿にされる。あいつら何も知らねえじゃねえか。どんなひでえ物みて帰ってきたかも知らねえでさあ。戦はおわらねえし皆狂ったみてえになってるしおれだってそうだし何か嫌だよなあ嫌じゃねえ? ここにいたかねえしどこにもいきたかねえ。地獄にァ友達もいるしここより向こうのがどんだけたのしいか知れねえよ。……」
 形がすこし違うだけで、私とおなじ不満を不安を持っているのだろうと思われた。けれども同情的なことばや感傷はなにも出てこなかった。
「勝手に死ねばいいです」
「え」
「私はあなたがきらいだ。憎んでさえいます。いま思い出した」
 何、と南瓜は訊いた。間抜け面だった。
「脚がすこしわるいくらいで頑丈なからだをしているあなたにはわかりません。大体健康なものがあこがれる病なんてのは生ぬるい。風邪程度にしか考えちゃあいないでしょうよ。戦の才があるなら人間がどうしたら死ぬかくらいご存知ですよね。そのなかでいちばん楽なのを選べばいい。こんな鬱屈した暮らしをすることはないです」
 顔を押しのけるとちっとも抗われなかった。私はすこし泣こうとした。
 かわいた咳ばかりでつづけて、どうしてもできなかったけれど。


 喉が切れてわずかに血を吐いた。南瓜はそれを肺腑からのものと勘違いしたようだった。あからさまにうろたえておおきなてのひらで胸をさすった。よけいに苦しかったが、私はただ目を閉じた。
 おれを許さないでくれと南瓜は言って、なのに何度か謝った。
「おれはあれだけ死をみてきて、なのに死ぬということがどういうものかわからねえ。ほんとうに。わずかばかりのしかしはっきりとしたあくがれがあって、それだけだ。生きているよりましだと思うだけだ。おまえのように死に近くしかも一所懸命に抵抗しようとするやつの気なんて知れねえ。けれど神々しいとは思う。同じ境遇に陥ることでおれが同じ神がかった境地に至れるならそうしたいと考えただけだ、わかるか?」
 わからなかった。何しろ南瓜は気が違っているうそつきなのだ。
 閉じたままのまぶたに何かやわらかいものが触れた。
 唇だろうと推測した。らすぐひどく欲情した。
 神々しいわけがない。境地のわけがない。
 が、と目を開けるとあかい舌が見えた。
 渾身の力をこめて、嫌味なほど整った顔を殴った。


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19450815

 あのあと南瓜は日をあけて三度ほどやってきた。
 いちどは勝手に昼寝をして勝手にひどくうなされ、
 いちどは私にむりやり梅干の黒焼きをたべさせ、
 いちどはひたすら馬鹿話をして帰っていった。
 それで毎度、いつまでも終わらない戦の話と、敵国の開発した新型爆弾の話としていった。「ここに落ちればいいのにな」とさえ口にして、だからそうまで死にたいなら! と私が包丁を一本貸すと怖気づいて泣きそうになった。それも三度繰り返した。
 南瓜は痛みと自分の血に極端に弱いようだった。
「怖いンじゃねえんだよ。怖いわけじゃあねえけれど、痛えと戦場を思い出すだろう。血もそうだ。嫌なんだ」
 それは一般に「怖い」ということだろう。臆病な男なのだ。
 ひとをたくさん殺しておいて自分の苦痛は嫌だなんて矛盾している。
 だから私は、三度といわず、「きらいです」「憎んでいますよ」と言ってみた。口先ばかりの台詞と思われないよう表情もつくった。
 そのくせ南瓜の来そうな頃にあわせて体調を整え飲み物なども用意した。
 はは。私だって矛盾している。
 南瓜は私に触る。夏なのにひえたてのひらが熱を吸うように這い回る。
 私はかれに病気がうつらないようにということばかり考えている。
 熱っぽい頭で、せつないくらいそのことばかり考えている……


「受信機あるか受信機。正午から重大発表だってよ」
 蝉の声だけうるさくて、ほかは静まり返った日だった。
 珍しく真剣な顔で南瓜はやってきて、奥の間にあった受信機を引っ張り出して私がいつも寝ている部屋の中央に置いた。
「重大発表?」
「うん」

 その日の重大発表が何だったのか、しらないものはないと思うから省く。

 正午に始まった放送はいきなり起立を求めて、しかし私たちは立ちもせず敬礼もせず正座すらしないまま身を寄せ合いやがて子供のように乱暴にかたく抱き合った。不安でたまらなかった。
 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ。朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ。聞こえた文言を三度繰り返してようやく私は意味をとり、それでもこの世にある限りの情動はとおいかなたに置き忘れてしまってきていた。あらゆる音はかすかですべての色は淡く、私をしめつける腕の力さえ、何とか感じ取れてはいる、という程度だった。
 南瓜はくすくす笑って、私の髪に鼻先をうずめながら、
「……死ぬのやめようや。馬鹿馬鹿しい」
 それはほとんど泣き声のように私には聞こえた。
 私は庭のほうを向いていたから朝顔がよく見えた。
 つよい日差しにやられて花はもうしおれていた。
 たくさん種がとれるだろうなと思った。
 そのほかには確かなことなどなにもないのだった。


 つよく抱かれて、空が転回するようなめまいを感じた。
 このひとはもうここに来ないだろうなとふいに感じ、
 あざやかなくせに不確かなその予想はやがてほんとうのことになった。




 1945年8月15日、敗戦。
 その年の朝顔の種はその後十年以上少しずつ蒔きながら保管していた。
 蒔けば必ず美事な大輪の花を咲かせたが、
 ある年引っ越したときに荷物にまぎれてどこかになくしてしまった。