■■■続・朝顔■■■
19470807
月光は相変わらず顔色がわるかった。
というより、死人でも見たような顔、を、した。
おれはかむっていたパナマを脱いで月光に土産の風呂敷包みを渡し、「まだ治らねえのか」訊いた。
「……いえ。もう菌はいないらしいです」
なのにこんこんと空咳をしている。
「相変わらず辛気臭ェ顔」
「そちらはだいぶいい格好じゃないですか。不知火さん」
あれ、おれ名前なんて教えた? と言うと嫌そうな顔、
「手紙、送ったでしょう。署名ありました」
「書いたかもな、言われてみれば」
「だから近所の方にあなたの評判をききましたよ。
近所で一番アホウなことをするガキがいつのまにか陸軍大尉まで進まれたそうじゃないですか。
で、
名誉の負傷でかえってきたとき、偉くなった、っていってみんなで喜んで迎えたら
ひねくれててうそつきで馬鹿なことしかしなくて前のままだった、て」
「……へえ」
だから素性知らせるの嫌だったんだ。胡散臭そうな顔をするだろうから。今みてえに。
「ひねくれてるのもうそつきで馬鹿なのも私は知ってるからいいですけど、」
ここまで比較的冷静に喋ったあと、何かぷつんと切れたらしかった。
「……っ、あなたいきなりふらっと出てってまたいきなり! なんなんですか」
「何なんですか、て言われてもよ。はじめの手紙に書かなかったか? 思い立って事業を始めたらわりとうまく行ってる。て。おまえだって何勝手に引っ越してんだよ馬鹿。探すの大変だったろうよ」
「だってあなたはうそつきだもの。それに私は引越しじゃないです実家に帰ってきただけです!」
連絡しようにも返信用の住所とか何も書いてなかったじゃないですかあ。と情けない声を出して月光はぐらっと上半身を揺らし、へたりこんだ。
「うわ。何だよまだ具合悪ィ?」
「……、いい薬があったおかげで何とかなりましたってば。びっくりしたんです。びっくりしてから気が抜けたんです」
たぶん死んだと思われてたンだろうな。いや絶対。
「調子は、どうです」
「何、商売の? いいよ」
「からだの」
「元気だろうよどうみても」
「……よかった!」
うつしてたらどうしようかと思ってました。と言って月光はまた咳き込んだ。やたら広い部屋だったのでその声はよく響いた。
よかったよかったとひとしきり喜んだ末に、ふっとなにか気づいたような様子、
「けどどうして誰も案内がいなかったんです。お客なのに」
「勝手に這入ってきたからじゃねえの」
「え」
やたら広い家だから探すのに苦労したンだってば。
「どうして?」
「そりゃあおめえ、」
いまからおまえがおれにさらわれるからじゃあねえの。
こたえるなりおれは月光を転がして抱き上げた。ガキかと思うほど軽かった。
「な」
「なんでとか訊くなよ。そうしたかったから。経済的に余裕ができるまで待っただけ褒めてもらいたいね」
私はあなたがきらいだし憎いです、とあえぎあえぎ言って、けれどおれのからだにしがみついた。
「あなたはすぐに嘘をつく。その場限りのことばかり言う。あかるいばかりで中身がない。中を覗くと底なしに昏い、あんまりに昏いから私は目をはなせなくなる、あなたのうなされる血まみれの夢に入り込んでしまう、私はあなたをすきなわけじゃない。きらいなんだ。きらいだからはなれたくなかった。きらいだからひかれた、きらいだから触りたいと思った、……」
いつまででも続きそうな声はけれどちいさかった。耳を寄せなければきこえないくらいちいさかった。
「……あさがおのたねをもっていかせてください、」
何の話かと思ったけれど急いでいたのでわがままをゆるした。身辺のこまごまとした代えがたいものをまとめると、最後にきれいな布地でつくったちいさなふくろを付け足した。それが種だろうとおれは推測した。
屋敷を出るときには難儀した。おれは脚をひきずるし月光は身は軽いが筋力と持久力がなかったからだ。たれも追ってこなかったのは奇跡か、はたちをとっくにこえた男がさらわれるなどと思いもよらなかったか、病弱な惣領が逃げ出すことなど決してないとたかをくくったのだろう。それともほんとうは、居心地のいいところだったろうか。
外から見るとおおきく堅牢でさみしい建物だった。植物に覆われた檻のようにも見えた。
ひとのいない道ばかり歩いた。真夏に見るわるい夢のように、背中にいくすじもつめたい汗が流れた。夢の中でいつでもおれは痛む脚を切り捨てようとしてもがいているのだった。ふと背後を振り返ると無数の死体が道をなしていて、脚からはとめどもなく出血していて、生きているのはおれひとりでそのおれすらも衰弱していて、どうしようもないのだった。目が覚めても救われずに呆然とするほかはどうしようも。
「こんなに、どうしていいかわからないのはひさしぶりです」
ごほ、といちどつよい咳をしてから月光は言った。
「ふたりでラジオを聴いたあの日以来です」
そんなこともあったなあとだけかえすと、思いがけないくらいあかるく笑う。
「あなたはそんな調子ですよ。私がどれだけあの日を覚えていてもあの日が嫌でもあの日がいとおしくても、あなたには軽いんだ。わかっていました」
わかっていたけどいま泣いてしまうのは許してください。と続けるので、 「でもおまえはいま笑っているよ」馬鹿みたいなことを言った。
「笑っていますか」
「うん」
「でも泣きたいです」
おれとしばらくいればそういうときにすなおに泣けるようになる。とか、そもそもそんなつらい思いをさせない。というようなことを二三言い、なんだか生娘でもだまして犯そうとしている卑劣漢のようだと思いついてやめた。いつもそうだ。嘘をついたつもりはなくても嘘っぽい。嘘にするつもりはなくても、うそになる。
「月光」
「はい?」
「朝顔の種って何」
「終戦の年に庭に生えていた花からとれた種です。きれいで大きい花が咲くので。あとあなたを思い出させるので」
「もういらないだろう」
月光はまたすこし笑うと、「でもあなたが信用できないからもっていきます」ささやくように言った。
泣きたいのだろうなとおれは思った。
「信用できたら手放すのか」
「きっと」
信用するというのは何だろうな。ずっとちかくにいるということか。嘘をつかないということか。ちいさな約束をし続けて几帳面に守り続けるということか。
おれにはどれもできそうもなかった。
「二週間です。たった」
何の話かと思えば、おれが月光の疎開先の家に通った時期だという。
「たった二週間におそろしいくらいとらわれた」
「じゃあこれから長くすればいい。怖いこたねえよ」
白いパナマを月光にかぶせてやった。顔の陰影がふかくなったように見えたが、なまっ白い頬は前と変わらず肉が薄そうだった。
「月光」
「はい」
「もう医者には行かなくていいのか」
「ええ」
「月光」
「はい?」
「おれはおまえに触るよ」
「……は、」
「口を吸うよ。おれはそういうとらわれかたをした」
月光はしばらく返事をしなかった。だいぶ歩いてからいちどうなずいたのがおそらく了解の合図だろう。
駅まではまだ遠くて、ひどく暑かった。
おれは脚を引き摺って月光は病み上がり。どこまで歩けるのかさえ知れなくて、
けれど別に、不幸ではなかった。
月光はなぜだか歩みを速めておれの前を行き、くるりと振り向いた。
「不知火さん」
「何」
順光にてらされてほそいからだは消え入りそうに見えた。
「やっぱり太陽を背負ってるのが似合います」
……、何を言いたいのかさっぱり理解ができなかった。
理解ができなかったので先を歩く月光の手首を掴んだ。
思ったよりしっかりした感触があって、意味もなくひどく安心した。
月光はわずかに身をよじり、
「でもまあ、いまは前ほど腹が立ちません」またわからないことを口にした。
指先からちからを抜いても逃げられなかった。
そのまま指をからめた。つよく、からめた。
月光はうすあかく頬を染め、
すぐに泣き出しそうに眉をゆがめつつ微笑した。
おれはそれを見なかったことにした。
ひでえ嘘を、つきそうになったので。
おまえが死ぬまで近くにいてやるから今すぐその種を捨てろ、と、
目をそむけでもしなければどうしても、言ってしまいそうだったので。
「明治大正昭和のあたりのレトロなゲンハヤ」なんて興奮により要領を得ないキリ番リクエストから書いていただいた作品とは思えないほどすばらしい…!
果報者過ぎて涙が出ます。
下手な感想で感動を濁したくないんですが、二人の曖昧で試すような会話や雰囲気がテクニカルヒットです。
これだけで白いご飯三杯は固いです(笑)
足引きずってさらいにくるゲンマさんも絶品ですよ…っ至福…vさとり様の素敵サイト「てのなるほうへ」にアップされている作品に、更に加筆して下さったバージョンを載せさせていただきました。
大作を本当にありがとうございました!
大事にさせていただきますーっ。
2006/8.